忠敬のかぞく、とくにおくさんのことについて、お話ししましょう。
忠敬は、17歳のときに、伊能家のむこ養子(ようし)に入りました。そのときのおくさん、「達(ミチ)」は、結婚して20年ののち、伊能家の商売がはんじょうしたころの、42歳のときに亡くなりました。
2番目のおくさんは、妙諦(みょうてい)といい、達が亡くなったあとに結婚しますが、忠敬が44歳のとき亡くなりました。
さらに、3人目のおくさんは、仙台藩の桑原隆朝(くわばら たかとも)の長女ノブといい、これも病気がちの人で、結婚5年後にこの世を去りました。
その後、最後まで忠敬の近くにいたのが、エイという女性だといわれます。エイはかしこい人であったらしく算術(さんじゅつ:さんすうのこと)も絵も上手であったといい、地図作成にも協力したといわれています。
また、忠敬は測量隊とともに長い間江戸からはなれていました。その間には、子どもたちのことなど家庭のいろいろな問題もあり、忠敬にはぜんそくなどの病気もありました。
残っている手紙などからは、長女のイネ(妙薫:みょうくんともいう)という人に心配ごとや、病気のことを相談することも多くありました。心配ごとのことでは、彼女をたよりにしていたようです。
忠敬の測量は、測量隊の力だけではなく、多くの村人、家を守ってくれたおくさん、そして家の商売を続けてくれた子どもたちなどの、みんなの協力でできたのです。