いのうただたか の ちずつくり

7.世界にみとめられた忠敬の地図

 忠敬の作った地図のすばらしさは、幕府も国々の大名もみとめていました。
 測量に協力した大名には、「私の国の、地図がほしい」とたのまれて、さしあげたこともありました。
 日本全図(「大日本沿海輿地全図」)が完成すると、江戸城の大広間に広げられ、将軍家斉(いえなり)や、そのほかのえらい人たちにお見せしました。
 「これは、すばらしい!!」と、だれもが声をあげたようです。
 
 忠敬の地図を見た、外国の人たちはどうでしたでしょうか。
 このころ(1854〜60年)になると、外交や貿易をもとめる外国の船が、日本のまわりにやってくるようになりました。イギリスの船は、日本のまわりの海で測量を始めます。
 各地の大名と外国人とが、あらそいを起こすことを心配した幕府は、測量を早く終わらせようとして、忠敬の作った地図をイギリス人にわたしました。
 広げられた忠敬の日本地図を見たイギリス人は、その地図の正確さにおどろいて、測量をやめて、引きあげたといいます。
 
 その当時は、地図を国の外へ持ち出すことが禁止されていました。
 少し後のことですが、長崎出島にいたシーボルトが、日本から地図をこっそり持ち出して書いた本によって、忠敬の日本全図がヨーロッパの人々にも紹介されます。その地図を見た、有名な探検家が忠敬の地図をほめたことから、世界中で有名になりました。
 もちろん「伊能図(伊能忠敬の作った地図全体をこう呼ぶ)」の正確さ、美しさは、その後の日本でもみとめられ、新しい西洋の技術を取り入れた地図ができるまでの間、永く使われました。



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