忠敬には、兄と姉がいて三番目の子どもでした。6歳の時にはお母さんが亡くなります。そのとき忠敬のお父さんは、小関家の婿養子(むこようし)だったので、そのお嫁さんが亡くなったことで、お父さんは忠敬だけを小関家に残して実家の神保家へもどります。10歳の時には、忠敬もまた神保家にもどります。
忠敬は、その小関家や神保家のあった九十九里海岸の近くの村で17歳(1763年)まで過ごしました。そののち、千葉県の香取市佐原にあった、伊能というつくり酒屋の、婿養子(むこようし)に入りました。
伊能家は代々酒屋であり、名主もつとめていたのですが、そのころ商売は、あまりうまくいっていませんでした。
しかし、忠敬が商売を始めると、昔のようにはんじょうしました。忠敬の力で、なんとかもり返したのです。とくに江戸へ出て、燃料する薪(まき)の問屋を始めたり、米の取引で成功したことが成功の原因でした。
忠敬が38歳の1783年のころには、天候が悪いため食物がとれなくなる大飢饉(ききん)が3年も続きました。また、浅間山が大噴火するなどの災害も起きて、村々には生活に苦しむ人がたくさん出ました。
その時、佐原村の名主(なぬし)になっていた忠敬は、食料がなくなって、こまった人々には食料を与え、病人には薬などを用意するなどして村人を助けました。