忠敬の正確な測量と日本地図の作成には、どのような人々が協力したのでしょう。
測量技術のことについては、先生であった幕府天文方の高橋至時(たかはし よしとき)と、そのこどもであった景保(かげやす)、景佑(かげすけ)が助けました。もちろん、測量がうまく進むための、幕府やたくさんの大名たちとの交渉も彼らの手で行われました。
測量に使った器械は、高橋先生とのつながりで、大阪の間重富(はざましげとみ)、江戸の時計師大野弥五郎、京都の時計師戸田東三郎らが協力しました。間重富のほんとうの仕事は、質屋(しちや)さん、大阪ではたくさんの蔵(くら)を持っていることで有名な人でした。
大野や戸田は、正確な歯車(はぐるま)で動く時計を作る職人でした。測量器械を作るには、時計作りのようなこまかな技術が必要だったのです。
それから、忠敬の漢学(かんがく:ちゅうごくのがくもん)の先生でもあったという久保木清淵(くぼきせいえん)は、忠敬と同じ、いまの佐原の出身で、測量が終わったあとの整理や、地図への文字の書き込みなどに協力しました。
そのほかにも、多くの隊員(たいいん)や村人も協力して、おおぜいの人の協力で測量を行いました。ですから、忠敬は、自分で測量するだけではなく、たくさんの協力者と技術者からなる測量隊をまとめて、日本全図を作ったのです。