ち ず そ く り ょ う い じ ん さ ん ぽ


−地図測量偉人を紹介します−

間宮林蔵(1780−1844)


間宮林蔵

 間宮林蔵(まみやりんぞう)は、いまの茨城県(いばらぎけん)のつくばみらい市(旧伊奈町)にうまれ、こどものころは、ちかくの専称寺(せんしょうじ)というお寺で学び、あたりで遊んでいました。
 あるとき、村の近くをながれる小貝川の水をりようする堰(せき:川のながれを、ちょうせつするなどのしくみ)の工事がおこなわれ、林蔵(りんぞう)は、そのようすを、まいにちのようにながめていました。

 そのうち、工事のせきにんしゃであった、幕府の役人であった、村上島之允(むらかみ しまのじょう)の目にとまり、工事をてつだうようになりました。

 村上は、そのごも、小さな林蔵をつれて、かくちの土木工事などにでかけるようになり、林蔵が18さいのときには、えぞにもでかけ、植林(しょくりん:木をうえること)や、えぞの人に、農業などを教え、地図(ちず)も作りました。

 29さいになった1808年、幕府(ばくふ)のやくにんとなった林蔵は、松田伝十郎(まつだ でんじゅうろう)とともに樺太(からふと)たんけんにでかけました。
 その年は、もくてき地までいけませんでしたが、つぎの年の1809年には、海峡(かいきょう)をこえて、大陸までゆき、「樺太(からふと:いまのサハリン)」が島であることをはっけんしました。   

 林蔵はそのご、公儀隠密(こうぎおんみつ)として日本各地をめぐり、かくちのようすを、ちょうさしていましたが、64さいのときに、病気でなくなりました。
 つくばみらい市(旧伊奈町)には、林蔵がこどものころあそんだ、おてらや、くらしていた家、まい日のようにながめ、こうじをてつだった堰(せき)などがのこっています。
 
 (間宮林蔵のぞう)北海道稚内市宗谷岬
 (間宮林蔵渡樺出航のきねんひ)稚内市宗谷村第二清浜
 (間宮林蔵の家 )茨城県つくばみらい市上平柳平柳64
 (間宮林蔵記念館)茨城県つくばみらい市上平柳平柳64
 (筑波山がねがいごとをした、どうくつ)茨城県つくば市筑波町大字筑波 筑波山男体山
 (間宮倫宗先生のぞう)茨城県筑波郡藤代町岡4先 小貝川岡堰ほとり
 (伊奈)間宮林蔵のおはかときねんひ)つくばみらい市上平柳平柳5 専称寺
 (林蔵のおみやげ)茨城県つくばみらい市
 (間宮林蔵蕪崇のおはか)東京都江東区平野2先
 (間宮林蔵塋域顕彰きねんひ)江東区平野1ー14ー7 本立院


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