高橋至時の墓
伊能忠敬(いのうただたか)に測量(そくりょう)をおしえた、高橋至時(たかはしよしとき)は大阪の生まれで、作左衛門(さくざえもん)ともよばれていました。
そのころ、天文学(てんもんがく)でしられていた、麻田剛立(あさだごうりゅう)先生のじゅくで学びました。1795年には、間重富(はざましげとみ)と、江戸の暦局(れききょく:こよみのことをするやくしょ)に出て、天文方となり、暦(こよみ)を作る仕事をしました。
至時(よしとき)は、暦ができたあとも、江戸にのこって、天文学についての研究を続けました。そこでであった忠敬(ただたか)と、そうだんして、地球の大きさを知るための測量をおこなうことにしました。
その結果作られたのが、「日本全図」です。忠敬が測量やそれ以外のことで、こまったときにたすけたのが、至時です。
もんだいがおきたときに、忠敬の測量が、ぶじにおわるるように、幕府のおやくしょと、なんども話あいをしました。一ばんの功績(こうせき)は、フランスのすぐれた天文学の研究書をほんやくしたことです。
至時は、この研究書のほんやくの大変な仕事がげんいんで、41さいの若さでなくなり、上野にある至時のおはかのとなりには、忠敬のおはかもありますが、これは忠敬のゆいごんによるものです。
忠敬は、なくなってからも、20さいもわかかった先生の近くにいたいと、話していたのだそうです。このきもちになったのは、先生がとてもすばらしい人であったからでしょう。
(高橋至時のおはか)墓東京都台東区東上野68 源空寺墓地