ち ず そ く り ょ う い じ ん さ ん ぽ


−地図測量偉人を紹介します−

間 重富(1756−1816)


間 重富

 間重富(はざましげとみ)は、大阪の質屋の子として生まれました。質屋(しちや:ものをあずけることで、おかねをかすしょうばい)は、土蔵(どぞう:ものを、たくわえるそうこ)が11もあったので、十一屋とよばれるほど大きな店であったといいます。
 
 小さいときから数学(すうがく)や天文学(てんもんがく)にきょうみをもっていました。
 数学を学んだのは、17さいのころ、天文書を読みはじめたのは20さいのころだといいます。
 32さいの時に、天文学の先生としてゆうめいな、麻田剛立(あさだごうりゅう)のじゅくに入り、さらに勉強をつづけました。
 
 そのご、幕府(ばくふ)のめいれいをうけて、のちに伊能忠敬(いのうただたか)の先生となる、高橋至時(たかはし よしとき)といっしょに江戸にでて、幕府の暦局(れききょく:こよみのことをするところ)で、こよみを作る仕事につきます(寛政7年 1795)。
 それまで、こよみをたんとうするのは、だいだいつづいた天文方(てんもんががた)の仕事でしたから、このときは、学者と、もとは商人であった技術者に、重要なことが、命令されたことになります。
 
 江戸での仕事を終わった重富(しげとみ)は、大阪の自宅に帰りました。そのあとも、自宅で天文かんそくをつづけ、ものさしについてのけんきゅうもしました。さらに、忠敬(ただたか)らがつかう、測量(そくりょう)器械をかんがえて、時計技術者に作らせるなど、忠敬の測量に協力したのです。
 
 器械のかいはつには、たくさんのお金がひつようでしたが、重富(しげとみ)のころには、質屋(しちや)もはんじょうして、くらがふえ、十五楼(じゅうご ろう)とよばれていたほどであったので、じゅうぶんなけんきゅうができたといいます。
 こどもの、重新(しげよし)も、忠敬の測量にさんかし、天文かんそくにもきょうりょくしました。
 
 (間家の測量所跡と間長涯天文観測地の碑)大阪府大阪市西区新町2先 グリーンベルト内
 (大阪市立博物館)大阪府大阪市中央区大阪城1-1 大阪城本丸内


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