ち ず そ く り ょ う い じ ん さ ん ぽ


−地図測量偉人を紹介します−

シーボルト(1796−1866)


シーボルト

 シーボルトは江戸時代(えどじだい)のおわりころ、長崎(ながさき)の出島(でじま)というところにあった、オランダ商館(しょうかん:いまの、たいしかんのようなところ)につとめるおいしゃさんでした。

 シーボルトは、大学(だいがく)で医学(いがく:おいしゃさんのがくもん)と博物学(はくぶつがく:いろいろなものをしらべ、せいりするがくもん)を勉強をし、日本にやってきました。
 オランダ人だけでなく、長崎のひとびとのちりょうもしたので、日本中に、長崎(ながさき)の出島(でじま)には、オランダ人のりっぱなおいしゃさんがいると、うわさがたつつほどでした。

 シーボルトは、医学(いがく)だけでなく、日本の文化(ぶんか)や植物(しょくぶつ)などにきょうみをもち、シーボルトのもとに集まってきた日本人のでしたちをとおして、たくさんの日本ことを知りました。シーボルトからは、医学だけでなくいろいろのちしきがひろがりました。

 また、出島(でじまの)のオランダ商館長(しょうかんちょう)が、江戸にむかうときに、いっしょに旅にでます。そのとき、シーボルトに会いにやってきた、かくちの人々と、意見をこうかんし、かんたんな測量をしながら旅を続けました。
 江戸につくと、さらにおおくの人々が、シーボルトに会いにやってきましたが、その中に高橋景保(たかはし かげやす)がいました。

 景保(かげやす)は、シーボルトがもっていた、「世界一周記(せかいいっしゅうき)」や「東印度の地図(東インドのちず)」に、きょうみをもち、日本の地図とこうかんすることにしました。
 しかし、そのころ日本では、日本の地図を、外国人にわたすことは、いけないことになっていました。

 景保は、幕府につかまります。また、国へかえろうとしていた、シーボルトのにもつから、日本地図がでてきたため、景保(かげやす)とかぞくは、しょばつされました。
 それでも、シーボルトは、ながいとりしらべのあと、国へ帰ることがゆるされました。
 帰国してからシーボルトが書いた「日本」という本の中で、こっそりもちかえった日本の地図がしょうかいされました。ところがその地図のあまりの正確さに、それをつくった伊能忠敬とその技術が世界にみとめられたのです。

 (シーボルト記念館)長崎県長崎市鳴滝2-70


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