ち ず そ く り ょ う い じ ん さ ん ぽ


−地図測量偉人を紹介します−

小菅智淵(1832−1888)


小菅智淵

 小菅智淵(こすげともひろ)は、幕府(ばくふ)のおやくにんであった、関定孝(せきさだたか)の次男(じなん)として、江戸に生まれました。
 小さいころから、漢学(かんがく:ちゅうごくのがくもん)や武術(ぶじゅつ:けんじゅつ)にせいをだし、22さいのときに、小菅家(こすげけ)のようしになりました。

 そのご、幕府(ばくふ)の軍艦操練所(ぐんかんそうれんじょ:ぐんかんのことをべんきょうするところ)や開成所(かいせいじょ:幕府の大学にあたるところ)で、学びました。
 幕府軍(ばくふぐん)と官軍(かんぐん)がたたかった、戊辰戦争(ぼしんせんそう)では、幕府軍として榎本武揚(えのもとたけあき)らと函館の五稜郭(はこだてのごりょうかく)で、さいごまでたたかいましたが、やぶれました。

 戦争のあとは、静岡藩(しずおかはん)にあずけられていましたが、あたらしい政府にまねかれて、地図や測量にかんけいした仕事につきました。
 明治12年に国土地理院(こくどちりいん)のもとになる、参謀本部(さんぼうほんぶ)の測量課長(そくりょうかちょう)となり、日本全国をだいだいてきに測量し、地図をつくる、大きな計画をつくりました。

 この計画は、のちにへんこうされますが、小菅課長の大きな計画がもとになって、いまの日本の測量や地図をつくる仕事がおこなわれます。明治21年に陸地測量部(りくちそくりょうぶ:これも国土地理院のもと)ができると、最初の部長となりました。そこで、前からおもいえがいていた、全国の五万分の一地形図(ごまんぶんのいちちけいず)をつくることが開始されます。

 しかし、その年のくれの、しゅっちょうの帰りに、病気でなくなりました。国土地理院(こくどちりいん)の測量は、小菅の計画からはじまったといえます。秋篠宮妃殿下(あきしののみや ひでんか)は、小菅の子孫(しそん)にあたたります。

 (小菅智淵のおはか)東京都港区南青山2-32-2 青山墓地西6通り


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