ち ず そ く り ょ う い じ ん さ ん ぽ


−地図測量偉人を紹介します−

玉川兄弟(兄庄右衛門 〜1706)(弟清右衛門 〜1715)


玉川兄弟

 徳川幕府(とくがわばくふ)がながく続き、いくさがなくなると江戸の人口はふえ、水の不足が心配になりました。
 そこで幕府は、玉川兄弟に、多摩川(たまがわ)から水をひくことをめいじました。兄弟は、それまでも幕府がする土木工事(どぼくこうじ:すいどう、どうろ、ダムなどをつくること)などを、仕事としてきましたが、これほどの大きな工事は、はじめてでした(1653)。
 
 水道をつくるには、川をほるという土木工事のちしきが必要なことはもちろんです。それ以外に、水を流すためには、多摩川(たまがわ)と江戸の標高(ひょうこう:うみからのたかさ)が、どれほどあるのか、どのくらいの傾斜(けいしゃ:かたむき)で川を作ればよいのか、どのような方法で傾斜をはかるか、といった測量のちしきが必要になります。
 また、計画をたてるためには、地図をつくるちしきと、地図をよむちしきも、必要だったにちがいありません。兄弟は、測量(そくりょう)や地図の勉強をいつどこでしたのでしょうか、よくわかっていません。
 
 多摩川(たまがわ)の水のとり入れ口のたかさと、江戸の高さの差は、わずか 100mほどでしたから、100mすすんで、25cmほど下がる、せいかくな川を作らなければなりませんでした。玉川兄弟は、このようなせいかくな測量をよるに、ちょうちんや、せんこうの束(たば)に火をつけ、それを見とおしておこなった、といわれています。
 
 こうした測量での、くしんのほか、土木工事(どぼくこうじ)でも、なんども、こんなんにあいましたが、わずか八か月で玉川上水(たまがわじょうすい)と、そこから江戸の町に水をひく水道工事を、完成させました(1654)。兄弟の名前は、玉川庄右衛門(たまがわしょうえもん)、玉川清右衛門(たまがわせいえもん)といいます。
 
 (玉川兄弟のどうぞう)東京都羽村市玉川1先 羽村せきのちかく。川むこうには、玉川兄弟をしょうかいする、羽村市郷土博物館もあります。
 (玉川兄弟のおはか)東京都台東区松ケ谷2 聖徳寺


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