近藤重蔵
近藤重蔵(こんどうじゅうぞう)は、幕府与力(ばくふ よりき)の子として江戸の駒込(こまごめ)で生まれました。少年時代は、湯島聖堂(ゆしませいどう)というところで、おこなわれた、学問のしけんで、いちばんのせいせきをとるほどの、しゅうさいだったといいます。
25さいになって、幕府(ばくふ)に蝦夷(えぞ)のまもりを、しっかりしなければと意見をいって、蝦夷地に行き、くなしり島やえとろおふ島をたんけんしました。
1798年には、最上徳内と協力してえとろふ島が日本の領土であることをしめすため、島に木のめじるしをたてました。
そのご、5回も、蝦夷・樺太(からふと:今のサハリン)・千島をたんけんし、道路のけんせつや、航路(こうろ:ふねのみちすじ)のかいたくに力をいれ、これらの北のちいきの地図をつくりました。
また、そのころは、大きな木におおわれて、なにもない、札幌(さっぽろ)ふきんの土地を見て、えぞ地の中心としてふさわしいところだと、幕府(ばくふ)に意見を出しました。
蝦夷地たんけんののちは、学問にすぐれているなどのことから、書物奉行(しょもつぶぎょう)などになっていました。しかし、子どもが、殺人じけんをおこしたことで、いまの滋賀県(しがけん)の大溝藩(おおみぞはん)に、あずけられ、かんしされました。
そのあいだも、滋賀(しが)の植物図鑑(しょくぶつずかん)を、つくるなどしていましたが、めぐまれない生活をおくったといわれます。
つみをおかした、重蔵(じゅうぞう)のこどもは、八丈島(はちじょうじま)に、しまながしになりました。つみがゆるされたあとは、父のおはかをたびたびおとずれては、はんせいし、八丈島の人びとのきょういくにつくしたということです。
(重蔵の甲冑姿のぞう)東京都北区滝野川29 正受院
(近藤重蔵のおはか)東京都文京区向丘13 西善寺
(近藤重蔵のおはか)滋賀県高島郡高島町勝野1796 瑞雪寺