長久保赤水
長久保赤水(ながくぼせきすい)は、いまの茨城県高萩市(いばらきけん たかはぎし)でうまれましたが、8さいのときにおかあさんが、11さいのときには、おとうさんがなくなりました。
少年時代から学問がすきで、本をよみ、地理(ちり)や地図へのきょうみもあったようでした。お母さんがなくなったあと、あたらしいおかあさんがきましたが、そのおかあさんをはじめ、まわりの人々のきょうりょくがあり、勉強をつづけることができました。
44さいの時には、今の東北地方へ旅にでて、「東奥紀行(とうおうきこう)」という本を、51さいの時には、いまの千葉県の銚子(ちょうし)から、ベトナムまで漂流(ひょうりゅう)し、長崎(ながさき)にかえってきた地元民(じもとみん)を、もらいうけに長崎へ旅にでました。
そのときのようすなどから、「安南国漂流物語(あんなんこく ひょうりゅうものがたり)」と「長崎行役日記(ながさきこうえきにっき なくなってからの1805年に発行)」をまとめました。
さらに、勉強をしたことから、52さいでみとめられて、水戸藩(みとはん)につとめることになり、61歳のときには藩主(はんしゅ:とのさま)の治保公(はるもりこう)に、勉強をおしえる、侍講(じこう)になりました。
赤水(せきすい)は、おおくの日本地図や、世界地図をつくりましたが、中でも日本でさいしょに、経線と緯線(けいせん と いせん:ちきゅうのうえの、いちをしめすめもり)が入った日本全図を作ったことで、ゆうめいです(「改正日本輿地路程全図」1779年)。
また、治保公(はるもりこう)からは、大日本史(だいにほんし)をつくることをめいれいされ、そのしごとをするとともに、中国(ちゅうごく)や蝦夷(えぞ:いまのほっかいどう)の地図も作りました。
赤水の生まれた、高萩(たかはぎ)市には、墓(はか)や記念碑(きねんひ)もあり、子孫(しそん)もすんでいます。
(長久保赤水のうまれたところ)茨城県高萩市大字赤浜774
(長久保赤水のむかしの家)茨城県高萩市大字赤浜3
(長久保赤水のおはか)茨城県高萩市大字赤浜955-1先
(高萩市歴史民俗資料館)茨城県茨城県高萩市高萩8−1