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−地図測量偉人を紹介します−

荒井郁之助(1839−1909)


荒井郁之助

 荒井郁之助(あらい いくのすけ)は、江戸生まれ、徳川幕府(とくがわばくふ)と、のちに明治政府(めいじせいふ)となる官軍(かんぐん)が、たたかった、戊辰戦争(ぼしんせんそう)の海軍(かいぐん)ぶぎょうでした。荒井は、のちに中央気象台長(ちゅうおう きしょういだちょう)になります。

 江戸の湯島で幕府代官 荒井清兵衛の子として生まれた荒井は、幼名(ようみょう:こどものときのなまえ)を幾之助(いくのすけ)といいました。昌平黌(しょうへいこう:ばくふの がっこう)に入り蘭学・洋算(らんがく・ようさん:西洋の学問や算数)を学び、武術(ぶじゅつ)にも、すぐれたといいます。

 長崎の軍艦操練所(ぐんかんそうれんじょ:ぐんかんのことを くんれんするところ)では、航海術(こうかいじゅつ:ふねで海を行くためのぎじゅつ)を学びました。
 そのような、ちしきと技術から、文久2年(1862)には、操練所頭取(そうれんじょとうどり:校長)になり、慶応3年(1867)海軍奉行(かいぐんぶぎょう)になりました。

 戊辰戦争のときには、榎本武揚(えのもとたけあき)らといっしょに、函館(はこだて)で官軍(かんぐん)とたたかいました。しかし、たたかいにやぶれて、一度はとらえられましたが、明治3年(1870)には、ゆるされて、北海道開拓使(ほっかいどう かいたくし)につとめます。
 荒井は開拓使仮学校の、ほんとうのいみの校長として、また測量技術者(そくりょう ぎじゅつしゃ)としてかつやくしました。

 のちには、内務省(ないむしょう)に入り、いまの測量きそを作りました。とくに、日本いちの正しい測定(経度観測)などにこうけんしました。
 そのご、気象台(きしょうだい)をつくることに努力し、明治23年に、はじめての中央気象台長となりました。

 (初代中央気象台長荒井郁之助の墓)東京都渋谷区広尾5-21 祥雲寺
 (荒井君碑)東京都渋谷区広尾5-21 祥雲寺


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