ち ず そ く り ょ う い じ ん さ ん ぽ


−地図測量偉人を紹介します−

高橋景保と渋川景佑(1785−1829、1787−1856)


シーボルト「日本」の中にある日本全図

高橋景保(たかはし かげやす)と景佑(かげすけ)のきょうだいは、幕府天文方(ばくふてんもんがた)の高橋至時(たかはし よしとき)のこどもです。ふたりとも、天文学者(てんもんがくしゃ)となり、父ときょうりょくしてして、天文学のけんきゅうをしました。

 兄の景保(かげやす)は、父のなくなったあと、天文方となり、幕府とのこうしょうなどのことで、忠敬の測量に協力しました。さらに日本しゅうへんの地図や、せかい地図なども作りました。

 ある日のこと、シーボルトから間宮林蔵(まみやりんぞう)のところにとどいたこづつみを、林蔵が幕府(ばくふ)にとどけたことから、景保(かげやす)が、シーボルトとしたしくしていたことがわかりました。
 さらに、景保が、そのころは、いけないことになっていた、外国人に地図をわたしたといううたがいで、たいほされました。
 国にかえろうとしていた、シーボルトの乗っていた船の荷物から、地図などがはっけんされました。景保は、きつい、とりしらべの中でなくなりました。長男や次男も島流し(しまながし)になりました。

 弟の景佑は、天文方の渋川家(しぶかわけ)のようしとなったので、姓(せい)はかわりましたが、おなじように忠敬の測量に協力して、近畿地方や、中国地方の測量にさんかしました。
 父の至時がはじめた、「ラランデ暦書(れきしょ)」のほんやくを、かんせいさせるなど、このころ天文学・暦学(てんもんがく・れきがく:こよみのこと)では、いちばんの人でした。
 そのごも、こよみの研究と、せいかくなこよみのさくせいなどに、力をいれました。景佑(かげすけ)のつくったこよみは、明治5年に、いまのようなこよみができるまで、つかわれました。

 (高橋景保のおはかときねんひ)東京都台東区東上野68 源空寺墓地跡
 (渋川家(景佑)のおはか)東京都品川区北品川4186先 東海寺大山墓地


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