婿養子(むこようし)に入った伊能の家は、代々名主(だいだい なぬし)であり、酒づくりのほか、米や、燃料(ねんりょう)にする薪(まき)などのとりひきをしていました。ですから、その時の伊能忠敬の職業は商人(しょうにん)であるとどうじに、あるときからは、今の町会長か村長のような仕事をしていました。
忠敬が伊能家に来たときには、商売はあまりうまくいっていなかったのですが、忠敬の努力でもり返し、飢饉(ききん)の時などには、こまった人々を助けるまでになり、佐原村(現在の香取市佐原)でもひょうばんの名主になっていました。
その忠敬は、49歳になるとその仕事を長男にゆずり、江戸へ出て天文学の勉強を始めました。今なら、金持ち熟年(じゅくねん)のカルチャースクールかよいといったものでしょう。