長崎出島(ながさき でじま)に住んでいたドイツ人医師(いし)であったシーボルトが、日本地図を持ち出そうとしてつかまり、日本から追放(ついほう)になったのは、1828年のことです。
また、シーボルトが日本にやってきたのは1823年、伊能忠敬がなくなったのは1818年のことですから、忠敬はシーボルトには会っていません。
さて、シーボルトは、誰から日本地図を手に入れたのでしょうか。伊能忠敬の先生であった高橋至時(よしとき)の子ども高橋景保(かげやす)が、どうしても手に入れたかった外国の本があって、これと地図をこうかんしようとしました。
忠敬の日本全図は、天文方の手で写し(うつし)が作られ、シーボルトのもとにとどけられました。
そのことが幕府に知れて、シーボルトらは役人につかまり、地図は取り上げられました(間宮林蔵:まみや りんぞう、のうったえにより、つかまったという話もあります)。もちろん、高橋景保や写しを作った天文方などもつかまり、処罰(しょばつ)されました。
その後、シーボルトは、追放されて国に帰りますが、つかまる前に急いで写した日本地図をこっそり持ち帰りました。
これが、その後にヨーロッパの人々に、しょうかいされたのです。