忠敬がなくなってからのことですが、日本各地の海岸近くには、各国の艦船(かんせん)が自由な外交(がいこう)や貿易(ぼうえき)をもとめてやってきました。
その中でイギリスの船は、日本の近くで測量を始めました。幕府は、あらそいがおきるのを心配して、測量を中止させようと、忠敬の作った地図を持たせました。
忠敬の地図を見たイギリス人は、その正確さにおどろいて、沿岸の測量を中止したといいます(1861年)。
それより前、シーボルトによって外国に持ち出された忠敬の地図をもとに、地図帳が出版(しゅっぱん)され、ヨーロッパの人々にしょうかいされました(1851年)。
そのけっか、忠敬の地図がヨーロッパの地図と比べてもすばらしいものであること、とくに海岸線のようすは、ヨーロッパ人が測量したもの以上であると、ひょうばんになりました。
その正確さ、そして美しさには、ロシアの探検家など、多くの外国人がおどろいたようです。
もちろん、日本でも高い評価(ひょうか)をうけた忠敬の地図は、そのご日本政府がしっかりした地図を作るまでの永い間利用されました。