伊能忠敬のよび名のことです。
前に紹介したように、子どものころは、神保三治郎(じんぼう さんじろう)という名前でした。
その後、17歳になると、伊能家へ婿養子(むこようし)に入り、このときから忠敬(ただたか)を名乗(なの)ることになります。
また、天文方(てんもんがた)の勉強なかまからは、推歩先生(すいほせんせい)とよばれていました。
「推歩」とは、「天体の動きの計算など、暦学(れきがく;こよみについての学問)について計算すること」です。忠敬がいつも、「推歩」のことばかり考えていることからついた、あだ名でしょう。
また、「いのう ちゅうけい」と、よぶこともありますが、これは後(のち)の人が親しみをこめてよんだのだと思います。
ところで、この時代に武士のほかは、苗字(みょうじ)を名のることがゆるされていませんでした。忠敬は、57歳になったときに、それまでの、よいおこないがみとめられて、幕府から、苗字帯刀(みょうじたいとう;苗字をなのり、刀を持つこと)がゆるされて、伊能忠敬と呼ぶようになったのです。
佐原には、忠敬の測量するすがたが、銅像(どうぞう)などに残されています。その姿を見ると刀をさしていますが、磁石(じしゃく)で測量するときに、まちがいがでないように、その刀は竹光(たけみつ)だったといいます。