忠敬の作った日本全図は、「大日本沿海実測全図(だいにほんえんかいじっそくぜんず)」などとよばれていますが、これが完成(かんせい)したのは、忠敬がなくなってから、3年後の1821年のことです。
それより前、日本の東半分が完成したときには、江戸城の大広間で、将軍家斉(しょうぐん いえなり)にお見せしました。忠敬の地図をみた将軍やお役人は、そのできばえにおどろいたそうです。
忠敬は、このほかにも各地の測量を続けながら、たくさんの地図を作りました。
そのほか、測量に協力してくれた各地の殿様(とのさま)にも、地元の地図をさしあげたこともありました。
日本全図が完成すると幕府に提出(ていしゅつ)しましたが、それは、明治6年の皇居(こうきょ)の火災により灰になりました。伊能家では、残っていたうつしを提出しましたが、これも大正12年の関東大震災(かんとう だいしんさい)の時にもえてしまいました。
今残っているのは、このときの原図などから写し取ったものや、伊能家や各地の殿様がもっていたものですが、不思議(ふしぎ)なことに、外国からも発見されています。
すばらしい地図であったので、たくさんの写しが作られ、多く人の手にわたったのだと思われます。