著書「日本」で紹介した日本全図
長い、苦しい取り調べうけたシーボルトでしたが、日本を追放されたのち、持ち帰った地理(ちり)と地図に関する書類は160種類にもなりました。その中には、蝦夷や樺太(えぞやからふと)の地図と多くの日本各地の国絵図(くにえず)や、忠敬の日本全図の写(うつ)しもふくまれていました。
帰国後シーボルトは、それらの地図などをもとに、「日本図」を初め「長崎湾の図」、「蝦夷地地図」、「朝鮮半島の地図」などのたくさんの地図を発行しました。
とくにシーボルトの代表作である、「日本」という本の中で、伊能忠敬と間宮林蔵の地図がせいかくであること、彼が、間宮の瀬戸(まみやのせと:間宮海峡のこと)を発見したことを、しょうかいしています。また、ここにしょうかいされた「日本全図」から、伊能忠敬らの測量技術(そくりょうぎじゅつ)と日本地図のせいかくさが世界中にみとめられました。
一度は幕府役人につかまったシーボルトが、さらにこっそりと持ち帰った地図などによって、日本の地図がせいかくであるとみとめられたのは、おもしろいことです。
その後1858年、日本とオランダの通商条約(つうしょうじょうやく)がむすばれ、シーボルトの罪(つみ)もゆるされたので、30年ぶりに日本に来ました(1859年)。