シーボルトは、長崎市民の病気をなおすとともに、多くの日本人に学問を教えたのでした。
その方法は、町なかにあった鳴滝塾(なるたきじゅく)での授業(じゅぎょう)のほかに、生徒には日本の歴史や植物などさまざまな問題をあたえて研究させ、報告(ほうこく)させるという方法でした。
これによって、シーボルトのもとには、日本についてのいろいろな報告書のほかに、日本各地の植物やどうぐなどがたくさん集められました。
長崎の町を、ほぼ自由に歩くことができたシーボルトでしたが、そのほかの地方を旅行することは、ゆるされてはいませんでしたから、塾の門弟(もんてい:生徒)の作った報告書などが、日本をくわしく知るのにやくだちました。シーボルトがつとめていた、出島の商館長(しょうかんちょう:いまのオランダ大使にあたる人)は、4年に一度江戸に行き、将軍(しょうぐん)にあいさつすることになっていました。そこで、シーボルトもこの旅(たび)にくわわりました。
長崎と江戸への往復(おうふく)の旅は、かごや船を利用しましたから、数ヶ月もかかる大旅行でした。その時に各地で植物採取(しょくぶつさいしゅう)をし、各地の医者や学者などと会い、日本と日本人のようすをくわしく調べたのです。