このように、シーボルトは長崎にやってくる各地の科学者や、商館長(しょうかんちょう)とともに江戸に向かった時に、知り合った人たちから、日本のようすを知りました。
また、病気の治療(ちりょう:なおすこと)をすることで、あるいはヨーロッパのことを教える代わりに、日本の書物や各地の地図も手に入れました。
そうした中に、伊能忠敬の先生であった高橋至時(たかはし よしとき)の子、高橋景保(かげやす)がいました。景保は、シーボルトから、そのころの世界のようすを聞き、そして、いくつかの地図や書物を見せてもらいました。その時、景保がどうしても手に入れたいものに、東インドの地図や世界のようすをしるした本がありました。
そのころの日本は、地図を外国に持ち出したり、外国人にわたしたりすることを禁止(きんし)していました。景保は、なやみました。しかし、めずらしい書物や東インドの地図を手に入れて日本に紹介することは、日本のためになると考えて、日本地図を渡してでも西洋の書物を手に入れたいと思いました。
話を聞いたシーボルトは、忠敬の作った日本地図と交換(こうかん)することにしたのです。