長崎にすんでいたとき、シーボルトには「おたき」という奥さんがいました。
やがて、「おたき」には「いね」という女の子が生まれました。
シーボルト事件がおきたのは、「イネ」が2歳8か月の時でした。シーボルトは、日本をはなれるとき、表に「おたき」の、うらには「いね」のすがたを書いた、小さな箱の中に、二人の髪の毛(かみのけ)を入れて持ち帰ったといいます。それほど、二人のことを思っていたのでした。
その「いね」の毛は、ひと目で混血(こんけつ)と分かる茶色のものであったといいます。そのご、日本での罪(つみ)がゆるされたシーボルトは、国で生まれた長男のアレクサンダーをつれて日本にやって来ました(1859年)。
その時、シーボルトは63歳(さい)、「いね」は32歳になっていました。「いね」は、シーボルトの門弟の指導(しどう)をうけて、長崎で産科医(さんかい:こどもがうまれることにかんけいした、おいしゃさん)を始めていました。
日本で最初の女医(じょい:じょせいのおいしゃさん)になったのです。そのときシーボルトは、日本とオランダとの貿易(ぼうえき)などの仕事をしましたが、2年7か月ほどで日本をはなれ(1862)、まもなく亡(なく)なりました(1866)。