前にもお話したように、シーボルトの集めた品々をつんだ船が、長崎の港(みなと)の先でそうなんし、その船の中からは、日本全図だけでなく、ある人が将軍から送られた、“あおいのごもん”(:しょうぐん家のしるし)のついたきものなど、そのころ外国人にわたしてはいけないものが、たくさん見つかりました(1828年)。
奉行所は、シーボルトと、この事件に関係(かんけい)した日本人を逮捕(たいほ)し、取り調べを始めました。長崎では、通訳(つうやく)の吉雄忠次郎(よしお ちゅうじろう)、江戸では高橋景保(たかはし かげやす)のほか、シーボルトや景保の門弟や長崎の役人など、たくさんの人たちが、つかまり、調べられました。
きびしい取り調べで、高橋景保は牢(ろう)で死にました。それだけでなく、景保の長男小太郎25歳、次男の賢次郎19歳も島流しになりました。シーボルトも出島から出ることをゆるされずに、14か月もの間、調べられましたが、のちに日本から追放(ついほう:おいはらうこと)になりました(1830年)。
もちろん、シーボルトと親しくしていたことで調べられた30人ほどの役人や通訳なども処罰(しょばつ:ばつをうけること)されました。