ま み や り ん ぞ う  ま め じ て ん


−間宮林蔵へのぎもんに答えます−

9.蝦夷地測量のけっかは、どのような地図になりましたか


間宮林蔵の蝦夷全図

 樺太探検(からふと たんけん)などで有名になった林蔵は、江戸に帰ると、ふたたび伊能忠敬と会いました。そして、測量(そくりょう)の方法と地図を作ることを、もう一度忠敬から学びました。
 その後、1811年(31歳)に蝦夷地(えぞち)にわたり、忠敬が調査しなかった蝦夷地の北と西の海岸にそって測量を始めました。測量は、忠敬から学んだ方位と距離(きょり)を測(はかる)る導線法(どうせんほう)と、天体観測(てんたいかんそく)で誤差(ごさ:あやまり)をなおす方法でつづけました。
 
 1817年には、林蔵の父が亡(な)くなり、一度ふるさとにもどりますが、その後も蝦夷地の測量をつづけました。寒さのきびしい蝦夷地(えぞち)での測量は、年をとった伊能忠敬にはむずかしいことでしたから、せいかくな林蔵の蝦夷地の測量結果が忠敬のもとに、とどけられたとしたら、大変よろこんだのではないかと思います。
 しかし、林蔵の測量が終わったときには、忠敬はもう亡(な)くなっていました。忠敬が測量しなかった蝦夷地の北と西の部分は、林蔵の測量のけっかをそのまま利用して、忠敬の日本全図は作られました(さいきん、蝦夷地の全部が林蔵の測量結果を利用したといわれています)。


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