村上島之允
1799年に幕府(ばくふ)から、蝦夷地(えぞち:今の北海道のこと)の見まわりを命令(めいれい)された一行(いっこう)に、主人の村上島之允(むらかみ しまのじょう)がえらばれました。そして、林蔵も村上のけらいとなり蝦夷にわたりました。
村上は、蝦夷地をくまなく調べてまわり、そのようすを幕府にほうこくしました。そして、二人はやくめを終わってからも蝦夷地にのこり、植林(しょくりん:木をうえること)や農地の開拓(のうちのかいたく)などの仕事をしていました。
林蔵は、1800年(20歳のとき)になると、ふたたび蝦夷地の見まわりをたんとうする役人として幕府にやとわれました。こんどは、正式(せいしき)な幕府の役人になりました。
その年のことです。緯度(いど:ちきゅうのうえの いちをあらわすたんい)1度のせいかくな長さを知るための測量をしながら蝦夷地にやってきた伊能忠敬と函館(はこだて)で会いました。そこで林蔵は、伊能忠敬と多くの意見交換(いけんこうかん)をしたのでしょう。また、測量や地図作りのことだけでなく、よほど気が合ったようで、二人は先生と生徒としてのやくそくをしたようです。
忠敬は、その後函館から蝦夷地の南の海岸を東に進んで根室(ねむろ)の先まで測量しました