間宮林蔵
1800年に忠敬と別れたあとの林蔵は、村上とともに蝦夷地を調査(ちょうさ)しました。
その後の林蔵は、なれない気候(きこう)のせいでしょうか、きびしい仕事のためでしょうか、病気になり一度江戸にもどります。病気がなおると、ふたたび蝦夷地にわたり、蝦夷地はもちろんのこと、南千島、クナシリ島やエトロフ島まで測量し、新しい道を切り開き、蝦夷地の住民に植林(しょくりん)や農業などを教えました。
このときの蝦夷地は、松前藩(まつまえはん)がおさめていました。林蔵の目から見た松前藩は、もとからの住民(じゅうみん)であるアイヌの人たちをくるしめ、ロシアなどの外国からの守りもわすれているように見えました。そのころの日本は、鎖国(さこく:外の国との貿易や行ききを、せいげんすること)をしていましたが、しゅうへんの海にはロシアやフランス、イギリスなどの外国の船がおとずれて、開国や貿易(かいこくやぼうえき)をもとめていました。
林蔵は、こうしたようすを心配して、蝦夷地だけでなく、クナシリやエトロフなどの日本の北の領土(りょうど)をすみずみまで調べ地図にしました(1807年)。