「樺太探検図」
一度目の樺太探検(からふとたんけん)から帰った林蔵は、すっきりしませんでした。樺太が、島であることを、自分の目で、もっとしっかりかくにんしたかったのです。
さっそく、そのころ蝦夷地をおさめていた松前藩(まつまえはん)に願い出て、再び調査(ちょうさ)にむかいました(1808年)。今度は林蔵だけの調査でした。ところが、この年は、寒さがきびしく、とちゅうから引きかえしました。
さらによく年、食料や舟のじゅんびを十分にととのえて、北へむかいました。現地の住民(じゅうみん)を案内人(あんないにん)にして、樺太の北のはしにあるナニオーというところまでとうちゃくすると、こんどは海をわたり、シベリアにわたりました。これで、樺太が島であることがはっきりしました。林蔵は、デレンという町まで行き、シベリアや当時の中国のようすなどを調査して帰りました。
1809年の冬に松前藩にもどった林蔵は、樺太探検のけっかを地図や本にまとめ、幕府に報告(ほうこく)しました。
この発見によって、樺太とシベリアの瀬戸(せと)のことが、「間宮海峡(まみやかいきょう)」とよばれるようになったのです。