林蔵の墓
林蔵は1844年(65歳)のとき、江戸の自宅で亡(なく)なりました。
亡くなるまでの数年間は、病気のため江戸にすんでいましたが、19歳のときに村上島之允(むらかみ しまのじょう)につれられて蝦夷へわたってからというもの、ずっと旅(たび)のれんぞくでした。
とくに、樺太探検(からふと たんけん)と蝦夷地測量(えぞち そくりょう)のころは、江戸にもどることも少なく、りっぱな家ももたず、結婚(けっこん)するひまもなかったようです。
そののちは、各地を調査しては、江戸に帰ることをくりかえしていましたから、林蔵の世話(せわ)をする人はいたのでしょうが、奥さんやこどもがいたようすはありません。平戸城主が残した本には、「勘定奉行(かんじょうぶぎょう:今のおおくらだいじん)の密使(みっし:ひみつのしごとをする人)をつとめていたので、家にいることもすくなく、ただ一人、やとわれたばあやがいて、るすばんをしている。」と書いてあります。
林蔵の遺骨(いこつ:死んだ人のほね)は、ふるさとの上柳村(かみやなぎむら)にうめられました。すまいがあった東京深川の本立院というお寺にも墓(はか)があります。ふるさとにある墓は、樺太探検の前に林蔵が自分で立てたのではないかといわれています。樺太を探検するということは、命がけであったことが分かります。小貝川のほとりには、二つの質素(しっそ:かんたんな)な墓がならんでいて、左は林蔵の、右はりょうしんの墓です。
ところが、林蔵の墓石の右面と左面には、二人の女の人の戒名(かいみょう:死んだ人につけられる名前)がきざまれているようです。さて、だれなのでしょうか?