残された間宮林蔵の印鑑
林蔵は、シーボルト事件のあとは、おもに勘定奉行(かんじょうぶぎょう)から命令された秘密の仕事をしていましたから、日本中を歩き回っていました。
樺太(からふと)や蝦夷地(えぞち)の探検(たんけん)をしていたころには、上司(じょうし:うわやく)であった村上島之允やその養子(ようし)の村上貞助(むらかみ さだすけ)などのきょうりょくにより、地図を作り、書物(しょもつ)も書きました。
それは、おもにクナシリやエトロフ、樺太などの地図であり、樺太やシベリアのようすをしょうかいした書物でした。とくに、1810年ごろに作られた樺太の地図、「北蝦夷島図(きたえぞしまず)」と報告書(ほうこくしょ)、1822年ごろに作られた「蝦夷全図」はすばらしいものです。
林蔵は秘密の仕事をしていましたから、作られた地図や報告書は幕府にていしゅつされ、死んだあとは、すべてやきすてるように、遺言(ゆいごん)していました。そのため、林蔵が作った地図や使用した物は、あとからうつし取った地図や少しの測量器具(そくりょうきぐ)などのほかは、あまりのこされていません。