私たちがつかっている地図は、いつごろからあるのでしょう。
 ずーっとむかしから、いまのような紙に書かれていたのでしょうか。
 むかしの地図に、日本はどのように書かれていたでしょうか。
 ”まさとくん”と、うさぎの”ラビーちゃん”といっしょに、地図の歴史(れきし)をたどってみよう。

まさとくん

ラビーちゃん
 
 
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その12 徳川幕府の命令でつくった地図


 
  行基図(ぎょうきず)が、700年ごろから1500年ごろまでは使われていましたね。  
 それから伊能忠敬の地図が作られる1800年ごろまでは、ほかに地図は作られなかったのですか。    
 
  そうではないんだよ! この間も、いろいろな地図が作られたんだよ。  
 少しむずかしくなるけれど、国を治(おさ)めるということは、とのさまが、農民(のうみん)や商人(しょうにん)から、ぜいきんをとるということでもあるんだ。  
 
 そのためには、農民がどれだけの田や畑をたがやして、どれだけ、しゅうかくをしているか、知る必要がある。  
 そのために測量やしゅうかくのちょうさをして、地図を作ることを検地(けんち)というんだ。  
 

  作られるのは、ずっと前に出てきた、荘園(しょうえん)の地図のようなものですか。  
   
  そうだね。国をおさめるための地図、ぜいきんをとるために必要な地図は、この間もずーっと日本各地で作られていたんだよ。  
 
 そして、江戸時代になるとね、徳川幕府(とくがわばくふ)は、それぞれの大名にめいれいして、日本じゅうで、地図を作るんだ。  
 
 できあがったものは、国絵図(くにえず)とよばれてね。それぞれの国ごとに作られ、それが江戸の幕府に集められたんだよ。  
 そうしたものが、江戸時代の間に、ぜんぶで四回作られたんだ  
 

 
 国絵図より、こまかな郡絵図(江戸時代のなかごろ、1681年〜1780年のころ)  
 
  へー、そんなに何回も作ったんですか。  
 命令された各地の大名は、こまりませんでしたか。    
 
  それぞれの、国のようすが幕府に知られるので、こまりますが、じぶんたちの国のためにも必要だったので、地図作りに協力(きょうりょく)したようです。  
 また、なんども作ったということは、そうした技術者(ぎじゅつしゃ)が、日本各地にいたということにもなりますね。

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