第3話 松浦武四郎の小さな庵
松浦武四郎(1818-1888)って人、知っていますか?
もしかして、“あやや”の祖先だったりして?
私は、”あやや”を知りません!
そう、興奮しなくてもいいでしょう。
とにかく、私は初めて聞きました。
「北海道」の命名者でもあって、
弘化 2年(1845)から蝦夷地、今の北海道を探検して
「東西蝦夷山川地理取調図」(安政 4年 1857)
などの詳細な地図を作成した人です。
同図は、主に海岸線だけの「伊能図」を補うように、
蝦夷地 内陸の詳細な河川の名前や地名が記入されています。
ふーん。初めて聞きました。
武四郎は、子どものころから、諸国を遍歴の志を抱いていたといいます。
そして、数え15歳の天保四年(1833)には、家出同然で江戸に出て、
17歳の時からわずか4年間で日本全国の名跡、山岳などをくまなく回ったといいます。
根っからの旅行家であり、探険家だったようです。
えー、それって単に放浪者だったのではないですか。
それで、どのようにして蝦夷地を探検して地図を作ったのですか。
放浪者と探検家の違いね?
武四郎は、単に各地をふらふらしたのではありません。
ロシアが蝦夷進出を計画しているのではないかというに疑念から、
蝦夷地探検を始めます。
そして、武四郎はメモ魔といった人で、
どこへ行っても見聞きしたことを文字にし、絵にしたようです。
蝦夷地では、原住民であったアイヌ民族に話を聞いて、文字に残したようです。
アイヌ語を理解したのですか?
しっかり、勉強したようですよ。
そして、明治の時代になると開拓地判官という職につきますが、
探検家松浦は、三年もしないうちに
「高齢で現地に赴くことも適わない身であるから」といって、
官を辞退します(52歳のとき)。
それなのに、その後も吉野連山や九州遊歴などを続け、
68歳になってから大台ヶ原を3回踏破し、
70歳になってからも富士登山に挑戦するなど、
登山や旅に明け暮れる毎日だったそうです。
「高齢」とかなんとかいって、ほんとうは、もっと放浪したかったのですね。
それはそれとして、
役職から離れてまもなくの明治6年55歳のとき、神田五軒町
(現在の外神田、「神田明神」の周辺)に新居を構えました。
明治19年には、自宅の隅に一畳間の書斎を建てたそうです。
その材料は、各地の寺院や神社の古材を使用したのだそうです。
いまどきのリサイクル、エコですね。
そうですね。
集まったのは、奈良春日大社、駿州久能山稲荷社、伊勢山田外宮、
西京東山東福寺仏殿ほか多数の神社仏閣の由緒ある切れ端だったそうです。
神社などの遷宮で解体した用材を利用したようです。
それにしても、
リサイクルショップなどのない時代に、どうやって集めたのですか?
諸国遊歴で知り合った各地の友から贈られたのだといいますよ。
古材収集癖がある?ことを、友人らが知っていたのでしょうね。
そして、武四郎には全国に広がるネットワークがあったのです。
小さな庵は、
現在は東京都三鷹市にある国際基督教大学の敷地内に移築されていて、
国の登録文化財として残っています。
武四郎は、
「命尽きたときは、この古色蒼然とした木材で亡骸を焼き、
遺骨を大台ケ原に遣ってほしい」と言い残したといいます。
うーん、自然にやさしい松浦らしい振る舞いと思わせるのですが、
子息は父の形見として一畳敷書斎を大切に保存しました。
あすか:子孫は、遺志に逆らった!というわけですね。
それにしても、この時代に廃材利用とは進んでいますね。
この時代だから、かもしれません!
次へ