【石川県】矢島守一(1845-1922)

 

 矢島守一

 

 日本の国境確定測量の嚆矢は、日露戦争後に行われた樺太の国境画定事業である。
 このとき日本側の測量は、矢島守一測量師が責任者となり、カールバンベルヒ製の66mm運搬子午儀という機器を使用し、ホレボー・タルコット法という方法によって緯度観測が実施された。
 矢島は、金沢藩士(金沢海軍所)で、維新に際して同藩が最初に建造した軍艦に乗り組み各地を巡航し、長崎、江戸湾にも航行したといい、彼の天測に関する最初の技術はこの時に得られたといわれる。
 明治7年に陸軍省に出仕、同10年には(西南戦争の)征討軍附戦地経歴測量に従事した。明治7年の参謀局創業時代から天文測量、基線測量、そして一、二等三角測量に従事し、特に基線測量と天文測量で多くの実績を残した。
 陸地測量部の基線測量の大半は、その前半は矢島が、後半は杉山正治測量師が主に担当し終了しているが、矢島が担当した当時は「4米ヒルガード式基線尺」が使用されており、これは尺の長さが4メートルと短く、非常に取り扱いが不便であったにも関わらず、その後の結果と比べても遜色無い高い成果を得ている。
 矢島の最大の功績は、前述の日露国境画定事業に際して天文測量を担当し、初めての国際的な測量事業に尽力したことであるが、ほかに初代三角科長田坂虎之助の下、杉山正治氏とともに三角測量の具体的な方法についてまとめた「実行法」の作成、測量の際に使用する回光燈の製作や回光通信の制定がある。
 後輩の語るところの矢島測量師は、根宿(出張中の宿舎)においても洋服を着用し執務を行うような古武士の風貌で、言語動作は明晰端正で、公私の区別に厳格な人であったという。
 「陸地測量部測量事業沿革之概略」(大正4年)を著した。    


 

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